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Kanji Isaac Ishizumi
 
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    Comments from a Rabbi in Jerusalem
    ジェルサレムのラバイからのコメント

  1. Introduction to Judaism
    ユダヤ教の初歩の初歩
  2. Difference between Judaism and other religions
    ユダヤ教と他宗教の違い
  3. Who Jews are?
    ユダヤ人とは?
  4. Jewish Religious Calendars and Annual Events : Jewish Ceremonies
    ユダヤ教の宗教カレンダーと年中行事・ユダヤ人の人生儀式
  5. Jewish Prayer
    ユダヤ教の祈り
  6. Kashrut
    ユダヤ教の食事戒律
  7. Jewish Laws (except Kashrut)
    ユダヤ教の戒律(食事戒律以外)
  8. What is the prohibition of idol worship that is the essence of Judaism?
    ユダヤ教の真髄である偶像崇拝の禁止とは
  9. Judaism and Circumcision
    ユダヤ教と割礼
  10. Judaism and Tzedakah (To help the poor)
    ユダヤ教とツェダカ(貧者救済)
  11. Concept of G-d in Judaism (Relationship between Jewish and G-d)
    ユダヤ教に於ける神の概念(ユダヤ人と神との関係)
  12. Interpreting Hebrew Bible by Kanji Isaac Ishizumi
    石角完爾が読み解く“おもろい”Hebrew Bible
  13. Jewish Daily Life, especialy Shabbat day
    ユダヤ人の日常生活 … 特に安息日について
  14. Jewish in the various cities and countries
    世界各地のユダヤ人
  15. Jewish Wisdom of  5000 years
    ユダヤ5000年の生活の知恵
  16. Judaism and Education
    ユダヤ教と科学・教育
  17. Judaism and Moral Law
    ユダヤ教と道徳・法
  18. Judaism and Medical Science
    ユダヤ教と医学
  19. Judaism and Money
    ユダヤ教とMoney
  20. Relationship between Men and Women in Judaism
    ユダヤ教と男女の関係
  21. Relationship between Human and Animal in Judaism
    ユダヤ教に於ける動物と人の関係
  22. Anti-Semitism
    反ユダヤ主義について
  23. Compariative study of Jewish and Japanese
    ユダヤ・日本 比較論
  24. Jewish view on Japanese Business and Business Culture 
    ユダヤ人から見た日本企業と日本の企業文化
  25. Jewish view on Japanese Education
    ユダヤ人から見た日本の教育の問題点
  26. Why and How Kanji Isaac Ishizumi converted to Judaism?
    何故、どのようにして(Why & How)石角完爾はユダヤ教徒になったか?
  27. Publication of Kanji Isaac Ishizumi
    石角完爾出版物紹介
  28. Comments from Blog readers
    ブログの読者からの反応
  29. Others
    その他
Chinese Translation of Hebrew Bible

読者から「Hebrew Bible の中国語訳はいつ頃初めて為されたのか?」という質問があったので答えておこう。


Hebrew Bible はいわゆる旧約聖書であるから、結局はChristianity の中に於ける旧約聖書の中国語訳がいつ為されたのか、という質問に置き換えることが出来る。

どうも歴史的にみると、AD 781年がHebrew Bible の最初の中国語訳のようだ。それもいわゆるNestorian Christian の学者により為されたものである。

Nestorianism の教徒が635年に中国の当時の首都長安(Changan)、今の西安(Xi'an)に住み着いて中国語を学び、Hebrew Bible すなわち旧約聖書の翻訳を始めたのが最初である。

その翻訳は石碑に残されており、その石碑によると紀元781年に記されたとある。その石碑は「大秦景教流行中国碑」、すなわちNestorianism 中国伝播の碑と言われるものである。

この石碑は1907年敦煌(Dunhuang)で発見されている。それによると、Hebrew Bible のうち中国語に翻訳されたのはMoses 五書の中の最初の2つ、すなわちGenesis とExodus だけである。

その後13世紀にMontecorvino のJohn 神父により翻訳が為されたという記録があるが、翻訳そのもののCopy は発見されていない。

その後例のMatteo Ricci、Jesuit 教団の神父によってHebrew Bible の中の十戒が翻訳されている。

18世紀になるとJesuit 教団の神父Louis de Poirot がMoses 五書全文を翻訳している。その翻訳文は現在北京のBeitang (北堂) Library に保存されている。

従って、この意味に於いてMoses 五書全文の中国語訳は18世紀Jesuit 教団の神父Louis de Poirot によるものが最初という結論になる。

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Jews and Music/Lorenzo Da Ponte

ユダヤ人と音楽 


ユダヤ人と音楽は切っても切り離せないほどの関係である。

何故なら、ユダヤ教では偶像崇拝が禁止されているから、絵画や彫刻はユダヤ人が避けるところであったからである。二次元、三次元でものを描くと、どうしても偶像を描いたのではないかと思われてしまう。 

ユダヤ人の音楽はSynagogue の外で奏でられる音楽とSynagogue の中で歌われるChanter による祈り朗読とに分けられる。

Synagogue の外で歌われるあるいは奏でられる音楽はSephardi 達の音楽Sepharadeと,  Ashkenazi達の音楽Klezmer とがある。

Spain 系北Africa 系のユダヤ人達をSephardi と言うが、そのSephardi 達がSynagogue の外で奏でる音楽がどちらかと言うとArab 色の強い旋律、音階などで構成されている。

一方のAshkenazi 達のSynagogue の外で奏でられる音楽、Klezmer 音楽はRussia、Poland、Lithuania、Romania、 Ukraineといった地域のユダヤ人達の間の音楽であり、弦楽器のViolin が伴奏として使われることが多い。

一方Sephardi の音楽はやはり弦楽器を使うがViolin ではなく5弦、4弦の楽器である。5弦の楽器はZither 、4弦の楽器はOud と呼ばれる。

一方Synagogue の中ではユダヤ教の戒律によって楽器を使うことが厳禁されているので(但し、Reform 派では必ずしもそうではない)、祈祷を一人のChanter または合唱隊が 独特の節回しで歌う、祈祷歌が各Synagogue 毎に生まれていったのである。

Synagogue で行われた祈りの朗詠がChristian に影響を与え、Gregorian 聖歌となってきた話は有名である。

ユダヤ人の音楽家を語る時には、まずはユダヤ人のOpera 作曲に欠かせない台本作家について語る必要がある。

その名はLorenzo Da Ponte である。

何を隠そう、Lorenzo Da Ponte こそ世界的に有名なMozart の「Figaro の結婚」、「Don Giovanni 」の台本作家なのである。Mozart は単に曲を作っただけにしか過ぎない。Opera は曲の付いた劇であるから物語の台本と台詞がある。その台詞、物語、Story の全てを書いたのが、このユダヤ人Lorenzo Da Ponte である。

このLorenzo Da Ponte はMozart と同じ時期の1749年のItaly のCeneda というユダヤ人居住区Ghetto の中で生まれた。そして育つにつれ、文才を発揮するようになった。

当時の小説家、詩人、台本作家を目指す者はいずれも国家挙げての音楽振興政策を取っていたAustria の皇帝Joseph 二世にいかにして近づくかということが重要であった。

そこでLorenzo Da Ponte はItaly のVenice でその人脈を発見するのである。Venice で知り合った知人の紹介状を携えてAustria 皇帝Joseph 二世に会うことが出来たのである。

当時も今も変わらないKnow who、誰を知っているか、誰を知っている人を知っているかということが運命の扉を切り開く鍵であることには変わりがなかった。

かくしてLorenzo Da Ponte は当時のAustria 皇帝Joseph 二世のお抱え台本作家となることが出来た。このことが当時Vienna で急速に頭角を現していたMozart と知り合うきっかけとなったのである。


Lorenzo Da Ponte  は迫害されたユダヤ人として「Figaro の結婚」に社会変革の種を潜ませることとした。

Lorenzo Da Ponte の書いた「Figaro の結婚」の台本Scenario は支配階級である貴族の浅はかさや馬鹿さ加減を被支配階級であるそれら貴族の使用人が嘲笑するというScenario で満ち満ちていた。

従って、これを皇帝Joseph 二世が公演許可を出すにはひと工夫もふた工夫もいることになる。何故なら、このOpera は公演が許可されると貴族支配の中世の社会秩序を揺るがすことになるかも知れないのであった。

そこでLorenzo Da Ponte はMozart に頼んでこの上なく美しい曲を付けてもらうようにしたのである。その旋律たるや今までにない美しい調べであった。これで皇帝Joseph 二世を説得できると踏んだLorenzo Da Ponte はMozart から曲の美しさを強調して皇帝Joseph 二世の許可を得るようにとMozart に仕向けたのである。Lorenzo Da Ponte は他のユダヤ人と同じで、行動に移す前に考えに考え抜くのであった。 

果たして、皇帝Joseph 二世はLorenzo Da Ponte の台本が大きな社会変革のうねりを生むとは知らず、上演許可を与えたのである。

その美しい音楽の調べはHabsburg 家のVienna からFrance 王家に嫁いでいたMarie-Antoinette の心を捉え、どういう訳かFrance 国内での上演も許可されたのである。

被支配階級が支配階級の愚かさを笑い飛ばすLorenzo Da Ponte の「Figaro の結婚」は大いにFrance人民の勇気付けを行ない、France 国王のGuillotine に発展した1789年のFrance 革命へと繋がっていったのである。

まさに被支配階級のさらに下に位置したユダヤ人の撒いた「Figaro の結婚」というOpera の台本の中に込められたユダヤ人の想いが社会を大きく動かした一つの成功例と言えよう。

次にLorenzo Da Ponte を台本作家として最高の位置まで引き上げたのが色男を描いた「Don Giovanni 」である。

「Figaro の結婚」の台本作家として一躍注目を集めるようになったLorenzo Da Ponte が Mozart に仕掛けて次に手掛けたOpera が「Don Giovanni 」である。

当然Lorenzo Da Ponte は「Don Giovanni 」も貴族支配の世の中を批判する種を埋め込もうとし、今度は性の快楽文化、自分の性欲の為すまま次から次へと女を口説いていく色男の物語を台本にしたのである。「Don Giovanni 」Spain 語ではDon Juan (ドン・ファン)である。

ところが現実に人間、特に男の持つ性欲がこのような形で取り上げられるOpera は民衆の心の中に潜んでいたChristian 文化に対する抑圧への抵抗という形になって、この「Don Giovanni 」も大ヒットをするのである。

つまりユダヤ人劇作家 Lorenzo Da Ponte は「Don Giovanni」を通じ当時のChristian 文化、特にChristian が教える男女間の倫理に対する強烈な一矢を放ったのである。

そしてLorenzo Da Ponte の意図せぬ最終作となったのがMozart とのCombination で描いた「Cosi fan tutte 」である。このLorenzo Da Ponte の描いた「Cosi fan tutte 」のStory も、どんな貴婦人も浮気をするものだというTheme であり、当時のChristian 文化人達の感情を意図的に逆なでするものであった。

Mozart と同世代のBeethoven もWagner も、このLorenzo Da Ponte の描く台本のChristian 文化に対する退廃的挑戦はどうにも我慢がならず、「最悪の台本だ、Mozart もLorenzo Da Ponte との手を切るべきだ」などと言い出す始末であった。

かくしてLorenzo Da Ponte はMozart という天才作曲家と組むことにより一躍Christian の倫理観、貴族支配の中世に対する劇作家としての挑戦の目的を達したのである。

しかし、あらゆる試みはその終末の時を迎える。Mozart が若くしてこの世を去ってしまったのである。

Mozart の死に直面し、Lorenzo Da Ponte もMozart 以外とはCombination を組まないと覚悟をしていたので、さっさとVienna を去り、London を経てNew York に渡り、渡ったNew York ではColumbia 大学で劇作家、Scenario Writer としての講座を持ち、生徒達に教える後半の人生を歩んだのである。

このようにLorenzo Da Ponte が活躍したのは皇帝Joseph 二世、Mozart の全盛期のわずか1780年代から1790年代の10年間ほどであるが、Lorenzo Da Ponte が世に放ったOpera は「Figaro の結婚」、「Don Giovanni」、「Cosi fan tutte 」という世界最高のOpera であったのである。

Mozart が曲を付けたことによってMozart のOpera と言われるが、実はユダヤ人劇作家、台本作家、Scenario Writer のLorenzo Da Ponte のOpera であり、Lorenzo Da Pointe が当時の世に放ったChristian 文化、貴族支配への一大挑戦の3大Opeara であったのである。

当時これといったMedia や無論Twitter などもない世の中に於いて、社会を動かす最も影響力のあるMedia はOpera であったことを考えると、Lorenzo Da Ponte のユダヤ人としての社会変革の決意が沸々と蘇ってくると言える「Figaro の結婚」、「Don Giovanni」そして「Cosi fan tutte 」であると言わざるを得ない。

かくしてLorenzo Da Ponte の名前は永遠の不出のユダヤ人劇作家として明記されなくてはならないと言えるのである。

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Jews in China/中国とユダヤ人

記録によれば、中国で発見された最古のHebrew 文字の記録はAD.718年頃の唐代のものであるから、ユダヤ人は唐の時代には既に中国に立ち入っていたことが確認されている。

 

 中国のユダヤ人については私のBlog (http://www.kanjiishizumi.com/?day=20180827、 http://www.kanjiishizumi.com/?day=20150905、http://www.kanjiishizumi.com/?day=20140722)で既に紹介しているが、さらに追述していこう。

 

集団としてのユダヤ人の中国移住はAD 960年から1126年の166年間の中国のKaifeng (開封)を首都とする北宋の時代にユダヤ人は今のKaifeng に住み着いたのである。このことは上記のBlog で述べた通りである。

 

このユダヤ人の本格的な中国Kaifeng(開封)移住が始まったのは十字軍によって追い出されたKaifeng に到着した7家族約1000名のユダヤ人が最初であると言われている。

 

彼らは記録によれば、現在のTurkey 領に居住していたユダヤ人が十字軍に追われてKaifeng まで来たとされている。 

 

そのKaifeng のユダヤ人に対して北宋は漢民族という共同体への参加を呼び掛けたのである。

 

具体的には孔子と孟子の勉強をすれば高級官僚への試験、すなわち科挙の試験を受けることが出来るし、漢民族の姓名に変えても良い、しかも、中国語を使用しても良い、としたのである。

 

ユダヤ人はどの地域にあってもその地域の民族と交わらないことを絶対の原則、すなわちユダヤ人の特性の維持を根本原理にしていたが、中国では逆に皇帝から漢民族の姓に変えてもいいし、漢民族の言葉である中国語を使ってもいいです、しかも高級官僚にもなれますよ、と誘われたのである。非常なる優遇である。 

 

これはEurope に逃れて行ったユダヤ人が受けた扱いとは全く逆であった。

 

当時のEurope では高級官僚になることも、ユダヤ的な姓名からChristian 的な姓名への改名も、現地の言葉のFrance語やGermany語への使用も特に勧められなかったし、むしろ禁止されていた。徹底的な差別を受けた。 

 

ところが中国のユダヤ人は時の皇帝から認められ、北宋の時代から南宋の時代に至って、実はSynagogue に清真寺という名前を付けて、お寺ならぬSynagogue、Synagogue ならぬお寺を建立しているのである。1163年のことである。ものすごく立派なお寺である。Europe では当時反ユダヤ旋風が吹き荒れSynagogue は全て破壊されていたが。

 

さて、Kaifengが何故Europe 大陸から渡ってきたユダヤ人が住み着く場所になったのか?

 

それは北宋時代、つまり960年から1127年に北宋の中心商業都市としてKaifeng が栄えた理由はKaifeng こそ黄河に繋がる運河網の中心都市であったということである。

 

 北京とは約800Kmも離れたこの土地こそ商業、流通、金融を得意とするユダヤ人にとってその運河網で黄河に通じるKaifeng は格好の土地であったのである。その運河網は実は隋の時代の2番目の皇帝煬帝によって開設されていたのである。

 

Kaifeng の運河網は黄河と通じ、黄河は中国大陸の至る所と船を使った運搬を可能として大河川である。最盛期にはかくしてKaifeng は当時世界最大の商業都市、人口100万人を誇る栄華を極めていた。

 

南宋の第2皇帝 孝宗の時にはKaifeng にユダヤ人のSynagogue 中国名清真寺が建設されている。時1163年である。

 

このKaifeng に住み着いたユダヤ人は何世代もの間漢民族、漢文化に溶け込み、漢民族と同様中国語を母国語とするユダヤ人として同化していったのである。その中には見るからに中国人ではない風貌の者でありながら科挙の試験に合格し、出世を重ねて州の行政長官にまで就任した艾田という男が存在していたという記録がある。

 

そのKaifengに住んでいたユダヤ人の存在は、1605年、 突然世界中のユダヤ社会に知れ渡ることとなったのである。

 

1605年、このKaifengに住むユダヤ人の艾田という州の行政長官まで上り詰めた男が北京を目指して旅立ったのである。

 

それは北京にEurope から来た宗教伝道師が住んでおり、どうも噂によれば、その宗教伝道師はIslam 教徒ではなくユダヤ教徒かも知れないと思い、わざわざ会いに行く為に旅立ったのである。

 

その北京在住のEurope の宣教師というのは実はJesus 会の宣教師Matteo Ricci であったのであるが、はるばるKaifeng から何十日間もかけて北京に来たKaifeng のユダヤ人艾田が会ったのはJesus 会宣教師のMatteo Ricci であり、現実に会って色々と話をしているうちにMatteo Ricci の信じる宗教がIslam 教でないことは分かったが、自分の信じるユダヤ教でもないという認識に至った。

 

その認識の大きな理由はMatteo Ricci が祈る時に聖母や聖Johannes の偶像に祈る姿に艾田はユダヤ教でないものを見出した。最も大きな違いはJesus Christ なるMessiah がこの世に存在していたという考え方にユダヤ教徒の艾田は全く同意できず驚愕したのである。Messiahはユダヤ教ではこれから訪れる者であったからである。

 

いずれにしてもJesus 会の宣教師が北京でKaifeng のユダヤ人に会ったという報告はJesus 会の本部Rome に直ちに伝達され、中国のKaifeng にユダヤ人が存在しているというNews がRome で驚愕のNews として広まったのである。

 

そのKaifengのユダヤ人達は度々黄河の氾濫に見舞われたが、彼らにとって最も大切なMoses 五書の羊皮紙に書かれた巻物だけは必死に洪水の難から逃れるよう保存したのであった。

 

無論土曜日には一切仕事をしないという安息日も守り、中国で一般的に食されている豚肉には一切口をつけないというユダヤ教の戒律を守り通していたのである。

 

ところで、中国ではKaifeng のユダヤ人の信じる宗教を挑筋教というが、それはユダヤ人がそのKosher の掟に従って肉から完全を血を抜き去る為に血管を除去し、そして血管に付着する筋肉も除去する宗教戒律から来ている。

 

これを見た中国人は彼らのことを筋肉を取り除き血管を取り除く宗教のもの、「挑筋教」と呼んだのである。 

 

さて、このKaifeng に建てられた約500人のユダヤ人達のSynagogue 清真寺の建物として物語を少し語っておこう。

 

清真寺は実は母なる黄河の大洪水に度々見舞われ破壊されている。なにせ母なる黄河は6,000Km にも及ぶ大河川であり、Kaifeng はその黄河の水面よりも約10m も低い低湿地帯の都市だったからである。逆に言えば、それゆえにKaifeng は運河に巡らされた東洋のVenice とも言うべき運河都市であった。

 

まず1461年にこの黄河の氾濫でこの清真寺ならぬSynagogue が破壊され再建された。1642年にも黄河の大氾濫でSynagogue 清真寺は破壊され、また再建されている。

 

その黄河の氾濫の度ごとにユダヤ人にとって最も重要なTorah の巻物が収められたArk はユダヤ人が命の限りを尽くして水被害から守っていたのである。建物は破壊されてもTorah の巻物は破壊されることは、水害に遭うことはなかった。

 

このように中国社会に溶け込んだユダヤ人はユダヤ語、Hebrew 語よりも中国語を主に使うようになり、寛容な中国社会の中に溶け込み、四書五経、孔子の易経、書経、詩経、礼記、春秋をMoses 五書と同様に勉強するようになったのである。そして中国人との異種結婚も進み、急速に中国化していったのである。

 

この点がEurope におけるユダヤ人とは全く違ったのである。

 

Europe におけるユダヤ人は徹底的なChristian教徒による迫害を受けた為に逆にEurope 社会に同化することなく、ユダヤの言葉、文化を守り続けた。

 

しかし中国におけるユダヤ人は迫害を受けることがなかったが故に逆に中国社会に同化してしまったのである。

 

無論ユダヤ人としての根幹に関わるShabbat の掟を守ること、食事戒律を守ること まで放棄したのではない。言葉とユダヤ人はユダヤ人としか結婚しないという純血主義を徐々に放棄していったのである。

 

 

 

 

その清真寺にはKaifeng に住む中国のユダヤ人が1489年に石版に記した碑文を残している。

 

それは中国のKaifeng に住むユダヤ人の歴史を紐解き、ユダヤ教のあるべき姿を中国の儒教、道教、仏教と比較し、ユダヤ教の本質を語っている。

 

その碑文には、「我々ユダヤ教はIsrael の祖師Abraham から始まっている」と書かれている。Israel すなわち「一賜樂業」と書いてある。Abraham は「阿無羅漢」

 

その神髄は、形像を作らず、鬼神におもねらず、邪術を信ずることなく、偶像も人を助けず、天なる者は清らかにして上に在る。志尊にして並ぶ者がない。1日3回、寅の刻、午の刻、戌の刻に礼拝する。礼拝するのは綱領を開陳するものである。

 

儒教は孔子を尊崇し、仏教は釈迦牟尼を尊崇し、道教は三清を尊崇する。ユダヤ教は皇天を崇拝し、祖宗を尊び、君臣を重んじ、父母に孝養を尽くし、妻子に和し、中国古来の五輪に背くことはない。ここに倫理の台本が天に発する。

 

と教えるのである。

 

1489年に刻まれた石板の碑文には(1489年は明の時代であるが)、Israel (一賜樂業)という文字、Abraham(阿無羅漢) という文字、そしてAdam(阿耽)という文字が書かれ、Abraham(阿無羅漢)がユダヤ教に改宗したのは周朝の146年(紀元前977年)であると記されている。そしてMoses (乜攝)がSinai 山でTorah を神から賜ったのが周朝の613年(紀元前510年)であると記されている。

 

そしてさらに碑文を読むと、Moses 五書は53巻から成ると記されている。現在我々ユダヤ人が読んでいるMoses 五書は54巻に分かれるから、この53巻というのはIran にあったユダヤ人達が52巻と53巻を一つにまとめていた結果1巻が欠落していることに由来すると考えられるから、中国のKaifeng に来たユダヤ人はIran のユダヤ人が中心であったと考えられる。

 

その中国Kaifeng に来たユダヤ人はIran 由来のユダヤ人であるが、さらに碑文を読んでくると、Iran 由来のユダヤ人は天竺より到来したと書かれている。天竺は言うまでもなく、中国西域を意味する。

 

この明の時代、永楽帝で明朝は最盛期を迎える。永楽帝は1360年から1424年の時代であるが、この時永楽帝は多文化主義を取っており、Islam 教徒の鄭和に命じて巨大な船団をEurope 方面まで派遣していたのである。

 

この永楽帝の時にKaifeng に住むユダヤ人もその繁栄のPeak を迎える。

 

永楽帝の時代Kaifeng に住むユダヤ人で医者であった俺誠が永楽帝より国家防衛軍指揮官の地位を授けられ、1421年にKaifeng にSynagogue 建設の監督指揮官になったのである。

 

永楽帝はこの俺誠を改名することを命じ、俺誠という名前から趙誠という名前に改名。Kaifeng の明朝における国家防衛軍の最高指揮官の地位まで昇り詰めたのである。

 

この1489年の碑文の解説をさらに続けると、この碑文にはユダヤ教の始祖達の名前の漢文字が統一的に記載されている。

 

Adamこれは「阿耽」と書く。Noah は「女媧」と書く。Isaac は「以思哈」と書く。これにJacob 「雅呵厥勿」、と書く。Moses は「乜攝」と書く。Aaron は「阿呵聯」と書く。そしてJoshua「月束窩」

 

さらに読み進んでいくと、度々このKaifeng には異民族が乱入し、黄河の堤防を破壊して何度か水没の被害に遭っているが、その度ごとにKaifeng のユダヤ人達はユダヤ人にとって最も重要なHebrew Bible を入れた箱を氾濫の後に探しまくって回収している様が描かれている。

 

1642年の黄河の氾濫は賊軍が攻め入って来て、黄河の堤防を意図的に決壊させて引き起こした氾濫であった。しかし意図的に堤防を決壊された為、その水害被害は甚大であり、Kaifeng の人口の9割が溺死したのであった。当時のKaifeng の人口は37万8,000人、生き残ったのは僅かに3〜4万人であったと言われている。

 

当然Kaifeng のSynagogue も一夜にして破壊され、その再建には10数余年を要したのである。

 

一番重要なTorah は密閉した箱に入れて水害被害を免れるように対策を取られていたが、その大半も失われ、その復興には実は浙江省の港湾都市寧波に居住していたユダヤ人のGroup からTorah の複製がKaifeng のユダヤ人Community に送られ、Synagogue の再建の中心となったのである。

 

寧波は浙江省の杭州湾の下流に臨む港湾都市であり、ここにもユダヤ人が存在していたことは記録上明らかである。

 

その後清朝に入ると、Kaifeng のユダヤ人のCommunity は8家族1,000人ぐらいに縮小し、同族婚から中国人との混血婚が一般的となり、言葉も中国語が一般的となり、徐々にユダヤ色が薄まってきたのであった。19世紀の初頭のことである。

 

そしてKaifeng のユダヤ人Community はRabbi ばかりでなくユダヤ人の男性が必ず生後8日目に受けなくてはならない割礼を行なう、いわば宗教的外科医ともいうべきMohel やKosher の規定に従って屠殺を行なうShohet という役割を行なうユダヤ人も存在しなくなり、ユダヤ的文化は徐々に浸食され喪失されていったのである。

 

割礼のことはBrid-milahという。

 

そして1866年になると、Kaifeng のユダヤ人Community はほとんど消滅し、Synagogue の建造物もついに灰燼と帰し、存在しなくなってしまったのである。

 

それは例の洪秀全の指導による太平天国の乱がこの地を襲ったからである。太平天国の乱はあらゆる寺院、仏閣の破壊を進め、Kaifeng のSynagogue もこの襲撃に遭ったのである。

 

太平天国の乱はKaifeng になだれ込んだのが1857年、ユダヤ人のCommunity はこの時に崩壊したのである。ここにKaifeng ユダヤ人Community の息の根を止めた太平天国の乱、1851年から1864年、具体的には太平天国の乱の運動がKaifeng に襲い掛かった1857年が中国Kaifeng におけるユダヤ人のCommunity の死期となったのである。

 

一方、阿片戦争に敗北した中国は19世紀半ばに別のユダヤ人Community を迎え入れていたのである。それが上海のユダヤ人Community である。

 

阿片戦争に敗北した中国は大量の外国商人や外国人を迎え入れることとなったのである。いや、むしろなだれ込んで来たと言っても間違いない。そのGroupの中にIran、Iraq、Egyptなどから上海に移り住んで来たSephardic 系のユダヤ人Groupがいたのである。

かくしてKaifeng のユダヤ人Communityが喪失するのと相前後して上海に大きなユダヤ人Community が発生するに至ったのである。

 

中国は阿片戦争の敗北によって大量に西洋から押し寄せる外国人に疎開地ということで植民地的開放をせざるを得なかった。その結果として、Europe から押し寄せて来たEurope 人の中にユダヤ人も交じっていたのである。

 

また同様に、そのNews を聞いてIran、Iraq、Egypt などのSephardic 系のユダヤ人も群をなして上海に押し寄せて来た。

 

ある意味に於いて阿片戦争の敗北がユダヤ人を中国に向かわせたのである。

 

1843年上海租界がかくして作られ、ユダヤ人一族、特に金融に秀でたSassoon 一族がやって来て金融業を興したのである。Sassoon 一族はSpain 系のユダヤ人Sephardicであった。

 

また一方Russia で吹き荒れたPogrom ユダヤ破壊主義を逃れてRussia からかなりの数のRussia 系ユダヤ人がSiberia やHarbin 経由で上海まで押し寄せて来たのである。

このようにして上海に巨大なユダヤ人Community が築かれたが、Kaifeng のユダヤ人はひっそりと人口減少に向かっていた。1900年の初頭Kaifeng のユダヤ人は100人を割っていたのである。

 

そこで上海の中国系ユダヤ人救済協会(The Society for the rescue of the Kaifeng Chines Jews)というKaifeng ユダヤ人を救済する協会が作られた。しかし十分な資金が集まらなかったのは、むしろRussia におけるユダヤ人の危機的状況に忙殺されていたからである。

 

一方1937年になって上海が日本に占領されたが、特に日本軍はユダヤ人を迫害しなかった為、逆にEurope からNazisに追われたユダヤ人が大量に上海に流れ込んで来たのであった。

 

そしてついに1912年にはKaifeng のユダヤ人Community にとって最も重要な例の石碑が保存の為にChristian 教団に売却されたのである。

 

1938年、日本軍がKaifeng にまで進駐した。この時日本軍はKaifeng の徹底的な調査を行い、その中でKaifeng のユダヤ人についても調査している。日本陸軍はKaifeng のユダヤ人を保護する政策を取ったのである。Nazis と同盟関係を結んでいた日本軍がKaifeng のユダヤ人の迫害をせず、むしろ逆に保護する政策を取ったことは注目に値する。

 

ところで、かくしてKaifeng のユダヤ人は全て上海に移り住むなどして滅亡したが、上海を支配していた日本軍はEurope からRussia から、そしてIran、Iraq、Egyptから戦禍を逃れて押し寄せて来るユダヤ人の難民問題に対処する為満州に数万人規模のユダヤ人居留地を確保するという案、いわゆるFugu Planを検討したのであるが、これは実現には至らなかった。

 

ところでNazis に追われてEurope や中東から大量のユダヤ人が上海に逃れて来たのは、そのNazis 当時上海はVisa 無しで入国することが出来た土地であったからである。

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「ユダヤ人とSynagogue」

読者から問い合わせがあったので答えておこう。

ユダヤ人はどのSynagogue にでも出入りする。最近は安全の為Security のCheck が厳しくなっているが、予めWebsite やEmail でそのSynagogue に申し込みをしておけば、Security のCheckをSynagogue の前で受けてPass すれば誰でも入れる。

Security のCheck はBody Checkが中心になる。勿論武器などを持っていれば全く入れないどころか警察沙汰になる。しかし、携帯電話やNote PC、Smartphone を持っていても入館は拒否される。荷物を持っていても、荷物は預けるように要求される。

Synagogue には絶対に携帯電話や荷物を持って入れない宗教上の決まりである。

ユダヤ人の格好をしているとより入館はSmooth になる。

無論そのSynagogue のMember で頻繁に顔を出すSynagogue ならSecurity Camera のCheck ですんなりと入れてくれる。 

さて、東京のChabad のSynagogue だが、ユダヤ人の常として自分の行くSynagogue と絶対に自分の行かないSynagogue と2つ存在しなければいけない。自分の街に自分の行くSynagogue が1つしかないというのはユダヤ人にとって好ましくないからである。

何故かと言うとユダヤ人は自己主張が強いので、自分のSynagogue じゃないSynagogue が存在しないと横並びになってしまって存在感を認識できないからである。

そういう訳で東京にはSynagogue がCoservative 系で一つ、Orthodox 系で2つ存在する。Orthodox 系はどちらもChabad 系である。


当然ユダヤ人の常として私はそのうちの一つにしか東京に居る時には行かない。もっとも年間のうち東京に居るのは数ヶ月だから、基本は海外のSynagogue である。

| - | 23:03 | comments(1) | trackbacks(0) |
中国のユダヤ人

中国のJewish


次に見せる写真は中国のJewishの写真である。と言っても、中国に居るAshkenaziとかSephardicのJewishではなく、中国原住のJewishあるいは中国で改宗した中国人Jewish の写真である。

(Photograph by Becky Davis/The New York Times)

 


(Photograph by Becky Davis/The New York Times)

 


この写真は筆者の知り合いのお嬢さんがNew York Timesに勤めており、そのお嬢さんが撮った写真である。

  

このKaifeng (開封) ChinaのSynagogue、Sino-Judaic InstituteではPrayerはHebrew語ではなく中国語で行われている。

 

この日はPassoverの日であり約50人の出席者があり、その中には地方政府の役人も出席している。つまり中国政府公認のSynagogue。

 

Kaifeng(開封)に於ける中国系Jewish達の歴史についてここで述べておこう。

 

Jewishが中国にたどり着いたのは唐朝(Tang Dynasty)、618年から907年の頃と言われている。

 

そしてその後北宋朝(960年〜1127年)の首都であったKaifeng(開封)は国際的な都市として色々な人種、Persia、India、中東、Arab、そしてJewishも住む国際的都市であった。Kaifeng(開封)はSilk Roadと繋がる都市であったからである。そしてJewish達は1163年にここに中国初のSynagogueを建設した。

 

その後明朝(Ming Dynasty)1368年〜1644年、明王朝の皇帝は中国系Jewish、あるいは中国に住むKaifeng(開封)のJewish達に対して氏を使うことを許した。

 

その中国系Jewish達に与えられた姓は「艾、石、高、金、李、張、趙(Ai, Shi, Gao, Gan, Jin, Li, Zhang, Zhao)」という氏名で、これは現在にも遡って確認することが出来る。

そして時代は飛ぶが、第二次世界大戦前にNaziに追われたJewish達2万5,000人が中国の上海に逃れて来たのである。

 

こういうことがあって1992年に中国とIsraelが正式な国交を持つに至り、実はKaifeng(開封)に古くからJewishが居るということが世界的に知られるようになったのである。現在Kaifeng(開封)には400人のJewishがいると言われている。

 

彼等は今でも中国にありながら豚肉、豚の脂、豚由来のものを食さないという習慣を堅持していると言われている。

 

2009年にはこのKaifeng(開封)に住む中国系Jewish達がIsraelを団体で訪問し大歓迎されている。

 

お墓の写真はKaifeng(開封)にある中国系Jewishの墓。


(Photograph by Becky Davis/The New York Times)

 


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2014年6月、何と105年の歴史を誇る中国HarbinのJewishのSynagogueが再建された。
 

再建には約3年の年月がかかった。Tongjiang Street(中国語で通江街)のSynagogueは元々105年前に建造されている。

 

その切っ掛けになったのはEurope及びCzar RussiaからJewish達が逃れて来てここに住みついたからである。

 

ところが第二次世界大戦後約50年間閉鎖されていたが、この度再建されたのである。

 

中国HarbinのJewishはEurope系、Russia系Jewishが多く今でも住みついている。それが再び再建されたのである。

 

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ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集』が3刷重版となりました。

私の書きました集英社から出版しました『ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集』 (https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%88%90%E5%8A%9F%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%80%8C%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%89%E3%80%8D%E9%87%91%E8%A8%80%E9%9B%86-%E7%9F%B3%E8%A7%92-%E5%AE%8C%E7%88%BE/dp/4087860116)がこの度3刷重版となりました。

 

発売以来順調に売り上げを伸ばしております。

| - | 01:11 | comments(1) | trackbacks(0) |
会社に「さん」を付けて呼ぶ ---- 日本だけの会社文化?

会社に「さん」を付けて呼ぶ ---- 日本だけの会社文化?


恐らくこの違いが欧米ユダヤと日本の違いの中で最も際立つものの一つ、つまり意思決定のSpeed の違いに影響してくるのだ。


日本では会社に「さん」を付けて呼ぶように会社に人格があり、その人格のある「会社様」が本社という聖なる場所に生きて存在しており、取引先や下請け、Salesman などその「会社様」より序列の低い人間は「会社様」のおわします所に来て挨拶(お参り)するべきだとという意識がある。


会社神格化だ。


西洋人もユダヤ人も会社には人格や神格などないので(そもそも、人は神格化しない、ましてや法人は人格化も神格化もしない。

西洋ユダヤの一神教とは人も法人も神格化しない宗教なのだ。)、社長も含め担当者同士会えるなら世界のどの都市でもさっさと会おう、その時と場所はお互いが合意した所で早く会おう、世界は早く動いているから、特にBusiness、Innovation、技術の世界は全てが早く動いているから、となります。


日本の会社人格主義/会社神格主義は「お前が会いたいと言っているのだから、俺の会社様のおわします本社に来い。それが礼儀というものだ」ということ。「俺の本社様」「俺の会社様」、トヨタ様、松下様、経営の神様、本社詣でということになる。


欧米ユダヤ社会では会社に「さん」を付けて呼ぶという法人人格化、ましてや会社神格化は全くありません。従って本社の応接間が何らかの意味(会社様への謁見の広間)を持つということも全くありません。


私がApple のSteve Jobsに会ったのも他の社員がいっぱい居た社員食堂です。お互いにTray に昼食を載せながら「Hi Steve」という感じで、向こうもT-shirt、私もT-shirt 。別に社長室に来いという本社の社長室でということは全くありませんでした。


Silicon Valley の会社の社長もごく普通に近くのStarbucksで取引先と会ったり、出張先のHotel のLobbyで取引先と会ったり、Salesmanと会ったりです。最近ではSkype Meeting で済ませることもごく普通です。


これに対して日本は会社を「さん」付けで呼ぶように会社に人格を持たせ(会社人格化)、その人格に対して崇拝、尊崇の念を持つ、または示す、こと(会社神格化)を社会的序列の低い人間(下請け、取引先、Salesman、そして社員)に要求するというものである。


恐らくこういう面(会社が人格化/神格化した為に儀式儀礼の為に時間がかかる面)がInnovation Speed の恐ろしく早い分野では日本が後塵を拝する姿と重なっていっているのでしょう。

| - | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
William 王子とWestern Wall (その2)

前回のE-Notice でイギリス王族として初めてWilliam 王子がWestern Wall (嘆きの壁)を訪問され、その前で祈りを奉げられたことを皆様に報じたが、これがいかに画期的なことであるのか、イギリス王室約1150年の歴史の中でいかなる意味を持つのかを振り返ってみよう。


問題のEdward 1世は1272年に王位に就いたが、その3年後の1275年Edward 1世はユダヤ人による金融業を徹底的に取り締まる発令をした。有名な1275年のStatute of the Jewry である。ユダヤ人取締り令。内容はユダヤ人に金融業を営むことを一切禁止するというものである。


それ以前のイギリスにおいてユダヤ人の生業は金融業であったことを考えれば、これがいかにイギリスのユダヤ人に対する大打撃であったかが分かる。


Edward 1世は王位に就く以前からすでにユダヤ人に対する取締りを王位承継者としてすでに実行に移していた。


彼が王位に就く3年前の1269年ユダヤ人が売買業、商品取引業を行う為には許可が必要とするユダヤ人物品売買禁止令を発布した。これによってユダヤ人は物品売買、古物売買に一切従事出来なくなってしまった。それまでユダヤ人の2つの生業、金融業と物品売買、古物売買業の2つであったことを考えると徹底的なユダヤ人取締り令であった。


そして王位に就く1年前の1271年、7歳以上のユダヤ人は全て決められた目印の胸下げを首にかけることが義務付けられ、胸下げはその後勅令によりだんだんと大きさが大きく決められ、Henry 8世の時には胸下げの色は黄色、そして大きさは指6本分の縦、及び横の長さが指3本分とされたのであった。なおかつ、12歳以上のユダヤ人は一般のイギリス人が支払う税金の3倍の税金を支払うよう命じられた。

 ちなみに、この黄色のBadge を付けるというユダヤ人認識票の伝統はNazis に引き継がれ、Nazis ではユダヤ人は腕にYellow のArm Band (腕章)を付け、そのArm Bandにはユダヤ人のJew の「J」を付けるように要求された。


そして1279年、Edward 1世が王位に就いてから7年後の11月17日、いきなりLondon の金融業に従事していたユダヤ人600人を通貨偽造の疑いで全員逮捕し、そのうち約半数の300名が絞首刑に処せられたのである。


実はそれ以前の1190年3月、イギリスのYork に住むユダヤ人に対する大量虐殺事件があった。その当時York には150家族、人数にして約400名のユダヤ人が住んでいたが、ユダヤ人討伐の十字軍の影響がEurope 中に広まり、それを受けて1190年の3月16日、イギリスのYork 地方に住む数百名のユダヤ人の大量虐殺事件が発生した。


いわゆる暴徒の集団が金融業を中心に生計を立てていたユダヤ人の商店、取引所、そして住家を焼き討ちしたのである。捕らえられたユダヤ人はその場で殺されるか火あぶりに処せられ、ことごとく虐殺された。


​そしてついにユダヤ人追放令が1290年に出され、イギリスからは一人のユダヤ人もいなくなった。財産は全て没収。

やっとユダヤ人がイギリスに入ることを許されたのは1649年のCromwell 時代になってからである。 ​

| - | 21:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
William 王子 嘆きの壁 石角扇

イギリス国教会の信徒であるWilliam 王子がこの度2018年6月28日JerusalemのWestern Wallを訪れ、ユダヤ教の印であるKippaを頭に被り、右手を壁に当てユダヤ教の祈りを奉げられ、ユダヤ教の祈りを書いた小さな紙の巻物を壁の隙間に差し込まれました。


我々ユダヤ人にとってイギリス王室のMemberが初めてWestern Wall(嘆きの壁)をこういう形で訪問してくれたことは大変有難いことである。

 

William 王子はイギリス王室として初めてJerusalemのWestern Wall(嘆きの壁)に祈りを奉げた第一号のイギリス王族となったこの快挙を祝い、早速イギリス王室主催の午餐会が開かれたので参加して来た。


  

なお、石角完爾の妻Naomi Rebekah Ishizumi​がNew Yorkで経営する石角扇商店はイギリス国王のEdward 8世及びSimpson夫人から特にご指名の注文を受け、イギリス王室から度々京都の石角扇商店に使者が来てお買い付けになった時以来からのイギリス王室との繋がりである。


かくしてイギリス王室御用達の日本の扇商店となった石角扇の代表作(第二代目当主石角喜三郎 1893年作)は大英博物館に収納され、大英博物館の日本美術展示館で石角扇の展示会が2002年3月に開催されたのである。 


石角扇商店当主6代目Naomi Rebekah Ishizumi​は1881年創業の石角扇商店の6代目当主となる。

 

大英博物館日本部長Tim Clark 氏と石角扇大英博物館展示会にて

| - | 02:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
William 王子 嘆きの壁 石角扇

イギリス国教会の信徒であるWilliam 王子がこの度2018年6月28日JerusalemのWestern Wallを訪れ、ユダヤ教の印であるKippaを頭に被り、右手を壁に当てユダヤ教の祈りを奉げられ、ユダヤ教の祈りを書いた小さな紙の巻物を壁の隙間に差し込まれました。


我々ユダヤ人にとってイギリス王室のMemberが初めてWestern Wall(嘆きの壁)をこういう形で訪問してくれたことは大変有難いことである。

 

William 王子はイギリス王室として初めてJerusalemのWestern Wall(嘆きの壁)に祈りを奉げた第一号のイギリス王族となったこの快挙を祝い、早速イギリス王室主催の午餐会が開かれたので参加して来た。


  

なお、石角完爾の妻Naomi Rebekah Ishizumi​がNew Yorkで経営する石角扇商店はイギリス国王のEdward 8世及びSimpson夫人から特にご指名の注文を受け、イギリス王室から度々京都の石角扇商店に使者が来てお買い付けになった時以来からのイギリス王室との繋がりである。


かくしてイギリス王室御用達の日本の扇商店となった石角扇の代表作(第二代目当主石角喜三郎 1893年作)は大英博物館に収納され、大英博物館の日本美術展示館で石角扇の展示会が2002年3月に開催されたのである。 


石角扇商店当主6代目Naomi Rebekah Ishizumi​は1881年創業の石角扇商店の6代目当主となる。

 

大英博物館日本部長Tim Clark 氏と石角扇大英博物館展示会にて

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