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Kanji Isaac Ishizumi
 
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    Comments from a Rabbi in Jerusalem
    ジェルサレムのラバイからのコメント

  1. Introduction to Judaism
    ユダヤ教の初歩の初歩
  2. Difference between Judaism and other religions
    ユダヤ教と他宗教の違い
  3. Who Jews are?
    ユダヤ人とは?
  4. Jewish Religious Calendars and Annual Events : Jewish Ceremonies
    ユダヤ教の宗教カレンダーと年中行事・ユダヤ人の人生儀式
  5. Jewish Prayer
    ユダヤ教の祈り
  6. Kashrut
    ユダヤ教の食事戒律
  7. Jewish Laws (except Kashrut)
    ユダヤ教の戒律(食事戒律以外)
  8. What is the prohibition of idol worship that is the essence of Judaism?
    ユダヤ教の真髄である偶像崇拝の禁止とは
  9. Judaism and Circumcision
    ユダヤ教と割礼
  10. Judaism and Tzedakah (To help the poor)
    ユダヤ教とツェダカ(貧者救済)
  11. Concept of G-d in Judaism (Relationship between Jewish and G-d)
    ユダヤ教に於ける神の概念(ユダヤ人と神との関係)
  12. Interpreting Hebrew Bible by Kanji Isaac Ishizumi
    石角完爾が読み解く“おもろい”Hebrew Bible
  13. Jewish Daily Life, especialy Shabbat day
    ユダヤ人の日常生活 … 特に安息日について
  14. Jewish in the various cities and countries
    世界各地のユダヤ人
  15. Jewish Wisdom of  5000 years
    ユダヤ5000年の生活の知恵
  16. Judaism and Education
    ユダヤ教と科学・教育
  17. Judaism and Moral Law
    ユダヤ教と道徳・法
  18. Judaism and Medical Science
    ユダヤ教と医学
  19. Judaism and Money
    ユダヤ教とMoney
  20. Relationship between Men and Women in Judaism
    ユダヤ教と男女の関係
  21. Relationship between Human and Animal in Judaism
    ユダヤ教に於ける動物と人の関係
  22. Anti-Semitism
    反ユダヤ主義について
  23. Compariative study of Jewish and Japanese
    ユダヤ・日本 比較論
  24. Jewish view on Japanese Business and Business Culture 
    ユダヤ人から見た日本企業と日本の企業文化
  25. Jewish view on Japanese Education
    ユダヤ人から見た日本の教育の問題点
  26. Why and How Kanji Isaac Ishizumi converted to Judaism?
    何故、どのようにして(Why & How)石角完爾はユダヤ教徒になったか?
  27. Publication of Kanji Isaac Ishizumi
    石角完爾出版物紹介
  28. Comments from Blog readers
    ブログの読者からの反応
  29. Others
    その他
Jews in China/中国とユダヤ人

記録によれば、中国で発見された最古のHebrew 文字の記録はAD.718年頃の唐代のものであるから、ユダヤ人は唐の時代には既に中国に立ち入っていたことが確認されている。

 

 中国のユダヤ人については私のBlog (http://www.kanjiishizumi.com/?day=20180827、 http://www.kanjiishizumi.com/?day=20150905、http://www.kanjiishizumi.com/?day=20140722)で既に紹介しているが、さらに追述していこう。

 

集団としてのユダヤ人の中国移住はAD 960年から1126年の166年間の中国のKaifeng (開封)を首都とする北宋の時代にユダヤ人は今のKaifeng に住み着いたのである。このことは上記のBlog で述べた通りである。

 

このユダヤ人の本格的な中国Kaifeng(開封)移住が始まったのは十字軍によって追い出されたKaifeng に到着した7家族約1000名のユダヤ人が最初であると言われている。

 

彼らは記録によれば、現在のTurkey 領に居住していたユダヤ人が十字軍に追われてKaifeng まで来たとされている。 

 

そのKaifeng のユダヤ人に対して北宋は漢民族という共同体への参加を呼び掛けたのである。

 

具体的には孔子と孟子の勉強をすれば高級官僚への試験、すなわち科挙の試験を受けることが出来るし、漢民族の姓名に変えても良い、しかも、中国語を使用しても良い、としたのである。

 

ユダヤ人はどの地域にあってもその地域の民族と交わらないことを絶対の原則、すなわちユダヤ人の特性の維持を根本原理にしていたが、中国では逆に皇帝から漢民族の姓に変えてもいいし、漢民族の言葉である中国語を使ってもいいです、しかも高級官僚にもなれますよ、と誘われたのである。非常なる優遇である。 

 

これはEurope に逃れて行ったユダヤ人が受けた扱いとは全く逆であった。

 

当時のEurope では高級官僚になることも、ユダヤ的な姓名からChristian 的な姓名への改名も、現地の言葉のFrance語やGermany語への使用も特に勧められなかったし、むしろ禁止されていた。徹底的な差別を受けた。 

 

ところが中国のユダヤ人は時の皇帝から認められ、北宋の時代から南宋の時代に至って、実はSynagogue に清真寺という名前を付けて、お寺ならぬSynagogue、Synagogue ならぬお寺を建立しているのである。1163年のことである。ものすごく立派なお寺である。Europe では当時反ユダヤ旋風が吹き荒れSynagogue は全て破壊されていたが。

 

さて、Kaifengが何故Europe 大陸から渡ってきたユダヤ人が住み着く場所になったのか?

 

それは北宋時代、つまり960年から1127年に北宋の中心商業都市としてKaifeng が栄えた理由はKaifeng こそ黄河に繋がる運河網の中心都市であったということである。

 

 北京とは約800Kmも離れたこの土地こそ商業、流通、金融を得意とするユダヤ人にとってその運河網で黄河に通じるKaifeng は格好の土地であったのである。その運河網は実は隋の時代の2番目の皇帝煬帝によって開設されていたのである。

 

Kaifeng の運河網は黄河と通じ、黄河は中国大陸の至る所と船を使った運搬を可能として大河川である。最盛期にはかくしてKaifeng は当時世界最大の商業都市、人口100万人を誇る栄華を極めていた。

 

南宋の第2皇帝 孝宗の時にはKaifeng にユダヤ人のSynagogue 中国名清真寺が建設されている。時1163年である。

 

このKaifeng に住み着いたユダヤ人は何世代もの間漢民族、漢文化に溶け込み、漢民族と同様中国語を母国語とするユダヤ人として同化していったのである。その中には見るからに中国人ではない風貌の者でありながら科挙の試験に合格し、出世を重ねて州の行政長官にまで就任した艾田という男が存在していたという記録がある。

 

そのKaifengに住んでいたユダヤ人の存在は、1605年、 突然世界中のユダヤ社会に知れ渡ることとなったのである。

 

1605年、このKaifengに住むユダヤ人の艾田という州の行政長官まで上り詰めた男が北京を目指して旅立ったのである。

 

それは北京にEurope から来た宗教伝道師が住んでおり、どうも噂によれば、その宗教伝道師はIslam 教徒ではなくユダヤ教徒かも知れないと思い、わざわざ会いに行く為に旅立ったのである。

 

その北京在住のEurope の宣教師というのは実はJesus 会の宣教師Matteo Ricci であったのであるが、はるばるKaifeng から何十日間もかけて北京に来たKaifeng のユダヤ人艾田が会ったのはJesus 会宣教師のMatteo Ricci であり、現実に会って色々と話をしているうちにMatteo Ricci の信じる宗教がIslam 教でないことは分かったが、自分の信じるユダヤ教でもないという認識に至った。

 

その認識の大きな理由はMatteo Ricci が祈る時に聖母や聖Johannes の偶像に祈る姿に艾田はユダヤ教でないものを見出した。最も大きな違いはJesus Christ なるMessiah がこの世に存在していたという考え方にユダヤ教徒の艾田は全く同意できず驚愕したのである。Messiahはユダヤ教ではこれから訪れる者であったからである。

 

いずれにしてもJesus 会の宣教師が北京でKaifeng のユダヤ人に会ったという報告はJesus 会の本部Rome に直ちに伝達され、中国のKaifeng にユダヤ人が存在しているというNews がRome で驚愕のNews として広まったのである。

 

そのKaifengのユダヤ人達は度々黄河の氾濫に見舞われたが、彼らにとって最も大切なMoses 五書の羊皮紙に書かれた巻物だけは必死に洪水の難から逃れるよう保存したのであった。

 

無論土曜日には一切仕事をしないという安息日も守り、中国で一般的に食されている豚肉には一切口をつけないというユダヤ教の戒律を守り通していたのである。

 

ところで、中国ではKaifeng のユダヤ人の信じる宗教を挑筋教というが、それはユダヤ人がそのKosher の掟に従って肉から完全を血を抜き去る為に血管を除去し、そして血管に付着する筋肉も除去する宗教戒律から来ている。

 

これを見た中国人は彼らのことを筋肉を取り除き血管を取り除く宗教のもの、「挑筋教」と呼んだのである。 

 

さて、このKaifeng に建てられた約500人のユダヤ人達のSynagogue 清真寺の建物として物語を少し語っておこう。

 

清真寺は実は母なる黄河の大洪水に度々見舞われ破壊されている。なにせ母なる黄河は6,000Km にも及ぶ大河川であり、Kaifeng はその黄河の水面よりも約10m も低い低湿地帯の都市だったからである。逆に言えば、それゆえにKaifeng は運河に巡らされた東洋のVenice とも言うべき運河都市であった。

 

まず1461年にこの黄河の氾濫でこの清真寺ならぬSynagogue が破壊され再建された。1642年にも黄河の大氾濫でSynagogue 清真寺は破壊され、また再建されている。

 

その黄河の氾濫の度ごとにユダヤ人にとって最も重要なTorah の巻物が収められたArk はユダヤ人が命の限りを尽くして水被害から守っていたのである。建物は破壊されてもTorah の巻物は破壊されることは、水害に遭うことはなかった。

 

このように中国社会に溶け込んだユダヤ人はユダヤ語、Hebrew 語よりも中国語を主に使うようになり、寛容な中国社会の中に溶け込み、四書五経、孔子の易経、書経、詩経、礼記、春秋をMoses 五書と同様に勉強するようになったのである。そして中国人との異種結婚も進み、急速に中国化していったのである。

 

この点がEurope におけるユダヤ人とは全く違ったのである。

 

Europe におけるユダヤ人は徹底的なChristian教徒による迫害を受けた為に逆にEurope 社会に同化することなく、ユダヤの言葉、文化を守り続けた。

 

しかし中国におけるユダヤ人は迫害を受けることがなかったが故に逆に中国社会に同化してしまったのである。

 

無論ユダヤ人としての根幹に関わるShabbat の掟を守ること、食事戒律を守ること まで放棄したのではない。言葉とユダヤ人はユダヤ人としか結婚しないという純血主義を徐々に放棄していったのである。

 

 

 

 

その清真寺にはKaifeng に住む中国のユダヤ人が1489年に石版に記した碑文を残している。

 

それは中国のKaifeng に住むユダヤ人の歴史を紐解き、ユダヤ教のあるべき姿を中国の儒教、道教、仏教と比較し、ユダヤ教の本質を語っている。

 

その碑文には、「我々ユダヤ教はIsrael の祖師Abraham から始まっている」と書かれている。Israel すなわち「一賜樂業」と書いてある。Abraham は「阿無羅漢」

 

その神髄は、形像を作らず、鬼神におもねらず、邪術を信ずることなく、偶像も人を助けず、天なる者は清らかにして上に在る。志尊にして並ぶ者がない。1日3回、寅の刻、午の刻、戌の刻に礼拝する。礼拝するのは綱領を開陳するものである。

 

儒教は孔子を尊崇し、仏教は釈迦牟尼を尊崇し、道教は三清を尊崇する。ユダヤ教は皇天を崇拝し、祖宗を尊び、君臣を重んじ、父母に孝養を尽くし、妻子に和し、中国古来の五輪に背くことはない。ここに倫理の台本が天に発する。

 

と教えるのである。

 

1489年に刻まれた石板の碑文には(1489年は明の時代であるが)、Israel (一賜樂業)という文字、Abraham(阿無羅漢) という文字、そしてAdam(阿耽)という文字が書かれ、Abraham(阿無羅漢)がユダヤ教に改宗したのは周朝の146年(紀元前977年)であると記されている。そしてMoses (乜攝)がSinai 山でTorah を神から賜ったのが周朝の613年(紀元前510年)であると記されている。

 

そしてさらに碑文を読むと、Moses 五書は53巻から成ると記されている。現在我々ユダヤ人が読んでいるMoses 五書は54巻に分かれるから、この53巻というのはIran にあったユダヤ人達が52巻と53巻を一つにまとめていた結果1巻が欠落していることに由来すると考えられるから、中国のKaifeng に来たユダヤ人はIran のユダヤ人が中心であったと考えられる。

 

その中国Kaifeng に来たユダヤ人はIran 由来のユダヤ人であるが、さらに碑文を読んでくると、Iran 由来のユダヤ人は天竺より到来したと書かれている。天竺は言うまでもなく、中国西域を意味する。

 

この明の時代、永楽帝で明朝は最盛期を迎える。永楽帝は1360年から1424年の時代であるが、この時永楽帝は多文化主義を取っており、Islam 教徒の鄭和に命じて巨大な船団をEurope 方面まで派遣していたのである。

 

この永楽帝の時にKaifeng に住むユダヤ人もその繁栄のPeak を迎える。

 

永楽帝の時代Kaifeng に住むユダヤ人で医者であった俺誠が永楽帝より国家防衛軍指揮官の地位を授けられ、1421年にKaifeng にSynagogue 建設の監督指揮官になったのである。

 

永楽帝はこの俺誠を改名することを命じ、俺誠という名前から趙誠という名前に改名。Kaifeng の明朝における国家防衛軍の最高指揮官の地位まで昇り詰めたのである。

 

この1489年の碑文の解説をさらに続けると、この碑文にはユダヤ教の始祖達の名前の漢文字が統一的に記載されている。

 

Adamこれは「阿耽」と書く。Noah は「女媧」と書く。Isaac は「以思哈」と書く。これにJacob 「雅呵厥勿」、と書く。Moses は「乜攝」と書く。Aaron は「阿呵聯」と書く。そしてJoshua「月束窩」

 

さらに読み進んでいくと、度々このKaifeng には異民族が乱入し、黄河の堤防を破壊して何度か水没の被害に遭っているが、その度ごとにKaifeng のユダヤ人達はユダヤ人にとって最も重要なHebrew Bible を入れた箱を氾濫の後に探しまくって回収している様が描かれている。

 

1642年の黄河の氾濫は賊軍が攻め入って来て、黄河の堤防を意図的に決壊させて引き起こした氾濫であった。しかし意図的に堤防を決壊された為、その水害被害は甚大であり、Kaifeng の人口の9割が溺死したのであった。当時のKaifeng の人口は37万8,000人、生き残ったのは僅かに3〜4万人であったと言われている。

 

当然Kaifeng のSynagogue も一夜にして破壊され、その再建には10数余年を要したのである。

 

一番重要なTorah は密閉した箱に入れて水害被害を免れるように対策を取られていたが、その大半も失われ、その復興には実は浙江省の港湾都市寧波に居住していたユダヤ人のGroup からTorah の複製がKaifeng のユダヤ人Community に送られ、Synagogue の再建の中心となったのである。

 

寧波は浙江省の杭州湾の下流に臨む港湾都市であり、ここにもユダヤ人が存在していたことは記録上明らかである。

 

その後清朝に入ると、Kaifeng のユダヤ人のCommunity は8家族1,000人ぐらいに縮小し、同族婚から中国人との混血婚が一般的となり、言葉も中国語が一般的となり、徐々にユダヤ色が薄まってきたのであった。19世紀の初頭のことである。

 

そしてKaifeng のユダヤ人Community はRabbi ばかりでなくユダヤ人の男性が必ず生後8日目に受けなくてはならない割礼を行なう、いわば宗教的外科医ともいうべきMohel やKosher の規定に従って屠殺を行なうShohet という役割を行なうユダヤ人も存在しなくなり、ユダヤ的文化は徐々に浸食され喪失されていったのである。

 

割礼のことはBrid-milahという。

 

そして1866年になると、Kaifeng のユダヤ人Community はほとんど消滅し、Synagogue の建造物もついに灰燼と帰し、存在しなくなってしまったのである。

 

それは例の洪秀全の指導による太平天国の乱がこの地を襲ったからである。太平天国の乱はあらゆる寺院、仏閣の破壊を進め、Kaifeng のSynagogue もこの襲撃に遭ったのである。

 

太平天国の乱はKaifeng になだれ込んだのが1857年、ユダヤ人のCommunity はこの時に崩壊したのである。ここにKaifeng ユダヤ人Community の息の根を止めた太平天国の乱、1851年から1864年、具体的には太平天国の乱の運動がKaifeng に襲い掛かった1857年が中国Kaifeng におけるユダヤ人のCommunity の死期となったのである。

 

一方、阿片戦争に敗北した中国は19世紀半ばに別のユダヤ人Community を迎え入れていたのである。それが上海のユダヤ人Community である。

 

阿片戦争に敗北した中国は大量の外国商人や外国人を迎え入れることとなったのである。いや、むしろなだれ込んで来たと言っても間違いない。そのGroupの中にIran、Iraq、Egyptなどから上海に移り住んで来たSephardic 系のユダヤ人Groupがいたのである。

かくしてKaifeng のユダヤ人Communityが喪失するのと相前後して上海に大きなユダヤ人Community が発生するに至ったのである。

 

中国は阿片戦争の敗北によって大量に西洋から押し寄せる外国人に疎開地ということで植民地的開放をせざるを得なかった。その結果として、Europe から押し寄せて来たEurope 人の中にユダヤ人も交じっていたのである。

 

また同様に、そのNews を聞いてIran、Iraq、Egypt などのSephardic 系のユダヤ人も群をなして上海に押し寄せて来た。

 

ある意味に於いて阿片戦争の敗北がユダヤ人を中国に向かわせたのである。

 

1843年上海租界がかくして作られ、ユダヤ人一族、特に金融に秀でたSassoon 一族がやって来て金融業を興したのである。Sassoon 一族はSpain 系のユダヤ人Sephardicであった。

 

また一方Russia で吹き荒れたPogrom ユダヤ破壊主義を逃れてRussia からかなりの数のRussia 系ユダヤ人がSiberia やHarbin 経由で上海まで押し寄せて来たのである。

このようにして上海に巨大なユダヤ人Community が築かれたが、Kaifeng のユダヤ人はひっそりと人口減少に向かっていた。1900年の初頭Kaifeng のユダヤ人は100人を割っていたのである。

 

そこで上海の中国系ユダヤ人救済協会(The Society for the rescue of the Kaifeng Chines Jews)というKaifeng ユダヤ人を救済する協会が作られた。しかし十分な資金が集まらなかったのは、むしろRussia におけるユダヤ人の危機的状況に忙殺されていたからである。

 

一方1937年になって上海が日本に占領されたが、特に日本軍はユダヤ人を迫害しなかった為、逆にEurope からNazisに追われたユダヤ人が大量に上海に流れ込んで来たのであった。

 

そしてついに1912年にはKaifeng のユダヤ人Community にとって最も重要な例の石碑が保存の為にChristian 教団に売却されたのである。

 

1938年、日本軍がKaifeng にまで進駐した。この時日本軍はKaifeng の徹底的な調査を行い、その中でKaifeng のユダヤ人についても調査している。日本陸軍はKaifeng のユダヤ人を保護する政策を取ったのである。Nazis と同盟関係を結んでいた日本軍がKaifeng のユダヤ人の迫害をせず、むしろ逆に保護する政策を取ったことは注目に値する。

 

ところで、かくしてKaifeng のユダヤ人は全て上海に移り住むなどして滅亡したが、上海を支配していた日本軍はEurope からRussia から、そしてIran、Iraq、Egyptから戦禍を逃れて押し寄せて来るユダヤ人の難民問題に対処する為満州に数万人規模のユダヤ人居留地を確保するという案、いわゆるFugu Planを検討したのであるが、これは実現には至らなかった。

 

ところでNazis に追われてEurope や中東から大量のユダヤ人が上海に逃れて来たのは、そのNazis 当時上海はVisa 無しで入国することが出来た土地であったからである。

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